INTERVIEW

ONO MEGUMI

小野愛 ONO MEGUMI

生み出しながら希望に向かう

ただただ、まっすぐに、ひたすらに。

永遠の時間を縫う人

一目見て、それが布とわかるまでに少しの時間を要する。ましてや遠目ではなおのこと。
布と綿で作られた石膏のような、いくつもの形を変えた「手」がつなぎ合わされ、血が通ったかのような環を作っている。そこには永遠に巡る時間が流れているかのように。

存在感のあるオブジェもまた、近づいてみなければ、とうてい素材が布とはわからない。自然石のような白いかたまりに、まるで千人針のごとく黒い糸で小さな一針一針の縫い目が続く。作品の名前は『ただただ』。それ以上のタイトルは考えられないほど、作品にそのまま寄り添う。

作り手は、大分県生まれ千葉県在住の小野愛さん。

どんなに研ぎ澄まされた感性と、近寄りがたさを兼ね備えている女性だろう。作品から受けた印象だけで抱いたこちらの勝手な想像を、対面した彼女は、はらりと拭う。目の前の女性は、まだ少女とも言えるあどけなさを残し、シャイな表情を見せながら、ほほ笑んでいる。醸し出されるオーラからは、ただただまっすぐな光しか感じない。もっと言えば、名前の通りの「愛」に包まれている。

思わず、どんな子ども時代だったかを問う。「子ども時代は超内弁慶でした」の後に続いた言葉は、想像もしていなかった。
「家族がすごく大好きで、家族に見せられない部分がないんです」
このあまりの素直過ぎる言葉に、聞いたこちら側が戸惑いを隠せない。やがて、ゆっくりと話し出す言葉の中から、ここが彼女の出発点であり、タフとも言える強さ、そして創造の源なのだと気づかされる。

家族愛に包まれた心地よさの中から

小野愛さんは大分県に生まれ、育つ。家族は父母、弟、祖母の5人。母方の祖父母も近くに住んでいたため、どこに行くにも団体行動だったという。
愛さんが将来の制作につながるきっかけとなる縫うことに触れたのは、母方の祖母の洋裁から。当時、周囲の子どもたちがゲームに夢中になっているとき、本人はゲームに全く興味を示さず、祖母に習った裁縫から始まり、工作や絵を描く遊びに夢中になっていた。

小学校時代は皆勤賞で通し、スイミングスクールに通い、ちびっ子マラソンに出場し、中学時代は陸上部に入部。実業団の陸上選手だった父の背を見て、小学校から走ることを日常として育った。将来はトライアスロンの選手になると何の疑いもなく思っていたという。しかし、思春期を迎えるに連れ、家族以外の人間と接するうちに、微妙にズレを感じ始め、その煩わしさで陸上も止めてしまう。この“外側”との違和感を覚え始めた頃から、じわじわと「小野愛」独自の世界が芽生え始めていたと言ってもいい。

高校時代は楽しい思い出もない。部員もほとんどいない美術部に入部し、美術室で一人、ひたすら絵を描いて日々を過ごした。その頃から服飾に興味があったこともあり、福岡にある服飾の専門学校に進むが、そこは縫製を主に服づくりの技術を教える、昔ながらの専門校。求めていたデザインを学べないとわかり、クリエイティブ活動は課外活動として自身で行いながら卒業後、自分ブランドで服を作ろうと思っていた矢先、次なるステップの学びに出会う。専門学校教師から推薦された、福岡に新しくできたファッションの学校、というより「ファッション塾」だった。

自分を探しに内の中へ、深く

おもしろいことに、ここまで順風満帆に歩んできたスムーズな人生が、逆に愛さんにとってのコンプレックスだったという。家族に恵まれ、何をしても肯定されていたため、人並に悩み、苦しみさえしていない自分は浅く、何もないのではないかと。その“悩み”に応えたかのような、この塾と出会いだった。

東京で活躍するファッションデザイナーであり、教育者でもある山縣良和氏が講師を務めるファッション塾は、完全にプレゼンテーションの授業。
「こういうことをしたいとプレゼンして、お互いに意見を述べ合うんです。作品を作る前に好きなものを出してといわれると、みんな装ったものを出してくる。オリジナルということにこだわる先生でしたから、すぐに見抜かれ、それは違うでしょ、と指摘されながら追求されるんです。みんな過去のことを探ったり、時に泣きながら自分の内を掘り下げていきました」

作るまえに、真の自分を知る。そこから生まれるオリジナルに出会うために。
愛さんもまた、原点である家族のこと、自分が好きなコト、モノを探し、突き詰めていく。それは今まで体験したことがないほど、深く潜り込みながら自分を掘り下げていくワークだった。そうして少しずつ潜んでいたものが現れてきた時、自分は形あるものではなく、形の見えないものに興味があったことに気づいたという。自分が表現したいもの、制作したいものは、衣装や既製服を作ることではない。そこに違和感を抱いた時から大きく道が分かれ、自由なアートへと傾いていく。この気づきこそ、アーティスト小野愛の始まりだった。

制作の向かう先は希望しかない

決めたこと、というより気づいてしまったことに対して、愛さんは迷うことはない。アートに進むと気づいてから、実績はなかったが迷わず別府市で募集しているアーティストレジデンスに応募した。そこを拠点に、本格的にアートというジャンルの作品を制作するようになる。最初の作品は布で、ベッドに横たわる女性を制作した。女性の体内から、内臓のようなものがはみ出している。

生きていくということは、いろんなことがつきまとう。心地良いことだけではなく、嫌なこと、傷つくこと、悲しむこと。モヤモヤとする感情すらも、愛さんは無視できない。どんなネガティブなことすら自分の中に在るのだから、置き去りにせず時間をかけて向き合う。人を作りたいと思った時、今の自分が一番大半を占めているものは何だろうと考えた。悩みや辛さを表に出し、しっかりと見届ける。そして作品制作に向かう時、悩みは肯定され、消化されていた。内なる自分を見て、考えることを形にしていくことが、制作のコンセプトとなり、同時に彼女の生きるスタンスにもなっていた。

愛さんは現在、千葉県松戸市と大分県竹田市で、半々の生活をしている。福岡に5年、別府に6年、そして松戸と、気づけば数年以上経つと居を変えている。一つの所に留まり居心地がよくなると不安になるという愛さんにとって、移動生活は苦痛ではない。それぞれの地で生活をし、新しい人に触れ、様々な変化がある日常を生きる中で、ただ過ぎさっていく時間さえ無駄にせず、慈しむように救い上げて形にしていく。決して楽な作業ではない。時には苦痛もともなうけど、制作を始めれば向かう先は光でしかないことを知っているからこそ、迷いもなく進んでいける。

「作品を見て、けっこう暗かったり病んでるみたいな感じで見られることの方が多いですけど(笑)、わたしとしては制作する過程でもう、希望に向かっているんです」と明るくきっぱりと言葉にする。
家族の愛を一心に受け、幼少時代から走り続けたこと、遊び道具のように針を持たされたこと、美術室で絵を描き続けたこと、ファッション塾で初めて自分の内を掘り下げたこと、辛い別れを経験したこと…そんな時間がつむぎあって小野愛を作り、作品が生み出される。
布でも映像でも絵画でもツールは何でもいい。今の自分にとって、ぴったりと合わさる素材を見つけたら、彼女はまっすぐと向かうだけ。ただただその先にある希望という光に向かって。